すいまの振り返り

Twitterや登壇やイベントの振り返り用の雑記です。

インフラ勉強会セッション 教育はSL理論で

インフラ勉強会で2019/7/19に登壇したセッションです。

登壇の少し前にTwitterで見た「聞く前にエラーメッセージぐらい読めよ」というツイートを見かけたのがきっかけです。

このツイートの内容は、多くの場合は同意できるものですが、対象者(聞いている側)のレベルや状況によっては許容されるのではないかと考えています。

この「状況によってやり方やレベルを変えながら指導する」という内容は、SL理論(Situation Leadership 理論)として提唱されています。

SL理論の紹介と、指導を受ける側の心境を思い出してほしいという思いから登壇しました。

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概要

  • SL理論(Situation Leadership 理論)の概要
  • 教育はナビゲーションとルーティング
  • 教育はSL理論で考えよう
  • 教育を通して対象者の不安と不快を取り除こう

コメント要約

「」がいただいたコメント(意訳)です。

SL理論概要について

対象者が感じている「不安」について

  • 「コーチ拒否したことがある身としては心が痛い...」
    • 拒否には、モチベーションがない、メリットがない、余裕がない、能力がないなど本人・環境含めてさまざまな理由が考えられるので一概に非難されるものではないと考えています。
    • 例えば、「今、自分が引き受けても中途半端になってしまうから」と断ることもあるでしょう。
    • 断った場合でも、対象者とは近い関係性にいることは変わらず、不安に感じている様子が見て取れると心が痛いと感じるんだと思います。
    • 職場で「OJT担当」のように特定の担当者がアサインされることがありますが、教育・指導は本人のためだけでなく、チームや組織のために行っているはずなので、特定の誰かが頑張るのではなく、チーム・組織全体で協力できる関係性が作れるのが理想だと考えています。
      • 直接的に指導する人だけでなく、「指導する人を助ける」ことも教育・指導の一環だと考えています。
  • 「想定しているペースから逸脱すると混乱しますね…」
    • 特に教育を始めた初期は、「できた/できないという結果」と「理解できた/できていないという状態」が乖離することがあります。
    • その乖離に気づかないと教育する側とされる側の認識のズレから次の「不安」「不快」につながることがあります。
    • 乖離について、教育される側が認識したとしても、それを伝えることは心理的に難しい場合が多いので伝えるきっかけを作ったり、複数(回)の実績をもとに状況を判断するといいと思います。

対象者が感じている「不快」について

  • 「ギャップミスマッチはペアリングする上司の采配が悪かったという、現場は誰も悪くない感じでしょうか」
    • ペアリングについては「やってみないと分からない」部分があるので、「やってみてダメだったとき」について「ダメだと気づき主張する機会」と「ダメだったときのアクション」について考えておく必要があると思います。
    • 基本的には仕組みの問題だと思っていますが、「感じていることを伝えない」など仕組みがあっても活用できなければ気づけないということもあるので100%現場は悪くないと言い切ることはできないと思っています。
  • 「教える人にとっては、単なる前提知識程度だから軽くと考えていての温度差とかもありそう…」
    • 教える情報の「価値」「位置づけ」も教える情報の一部のはずなので、「目的」「意図」と同様に伝えていく必要があります。
  • 「情熱がありすぎる人いるいる、ぱっと見親切な人に見えるので不快だと主張しにくくで困る 」「熱量も評価もギャップがあって認識補正できないと不満たまっちゃいますよね」
    • 特に「教育をやりたい人がほとんどいない環境」だと、「せっかくやってくれているんだから」と不快であることが主張しづらかったり、主張がとがめられることがあります。
    • さらに、周りが主張したとしても「じゃあ、代わる?」と振られたりすることを求められて言わなくなることもありそうです。
    • 制度として客観的な状態の観察や評価の仕組みを作り上げるのがよいですが、実現するのは難しいですね…

なぜできないかについて(マインドと組織)

  • 「情熱がある人はそれの件について専任だから熱く教えるけど、こっちは片手間でやれと言われていて、正直熱意が無いとかもありそう」
    • 集合研修のようなまとまった時間を取る教育以外では、他の業務を兼務しながら行うことが多く、その「他の業務」によってどうしても「かけられるコスト」に個人差が出てしまいます。
    • 教育は「アサインされた人のタスク」ではなく「チーム・組織としてのタスク」のはずなので、周囲が協力していける環境や関係性作りが重要になってきますね。
  • 「教える側の方が知らないってことを恥ずかしく思ってしまうのも ねえ…なかなか文化的に定着してる部分もあって完全にプライド捨てるのは難しい」
    • 学校教育含めてすべての「教育」に言えることですが、「教える側が完璧」という状態は限定的で形式化された事実のみを教える状況でしか成り立たないと考えています。
    • 教えられる側の興味は、今回教えたい内容に必ず収まるということはなく、すべてに対して回答を持っているわけではありません。
    • また、回答を持っていても「それを教える術」を持っているとは限りません。
    • そのような状態を想定し、前提と置いたうえでやり方や関係性を考えていく必要があります。
    • 多くの場合、「教える側が偉い」というマインドやプライドが原因なのではないかと考えています。
  • 「関西風の教え方 末尾に「知らんけど」と付ける」「知らんけど ってつけたら怒られた」
    • 「知らんけど」が通じる文化圏は限定されていますし、意図やニュアンスが正しく伝わる保証はないので使うべきでないと考えています。
      • 少なくとも私は教える/伝えるときに「知らんけど」を使う人の情報をすべて信用したくありません。
  • 「学ぶ気概がある人には惜しげなく提供しますが、その場しのぎの人はやはりモチベーションがさがりますねぇ」
    • 教わる側の態度に問題がある場合もありますね。
    • 「自分の気に入る/求めている回答」しか聞く気がなかったり、「とりあえずなんとかしたいから答えだけ教えてくれ」という態度に対しては不満に感じます。
    • 「教える側が偉い」わけではありませんが、「教えることに時間を割いている」ことに対しては敬意を持つべきだと考えています。
  • 「正しい言い回しとしては「少なくともこの会社の認識としてはそう。ただ、諸説あるみたいだから興味あったら後で調べとくといいよ。」みたいな感じかなあ <知らんけど」
    • 「確証はないけどこういう情報がある」「この環境では通用するけど他の環境で通用するかはわからない」というようなニュアンスなのであれば、そのまま伝えればよいのではないかと思います。
    • わざわざ「混乱」「不安」を与えるような表現しかできないのであれば教育・指導のセンスがないと思います。

感想

教育・指導は、プレイヤーとは別のセンスや能力が必要だと考えています。 さらに、モチベーションがある人というと適性がある人は稀なのかもしれません。

「誰がやるか」を考えるときに「教えるための知識があるか」を重要視することが多いのではと感じています。 しかし、やりながら学んだり、他の知っている人を頼るという選択肢があれば問題ないと考えています。さらに教育には「教えようとして(教えられるほど)十分に理解していないことに気づく」という効果もあります。 未熟な人/精通していない人にあえて担当してもらうことで、教える側の成長につながることもあるので、「やってみたいけど知識がないことが不安だから尻込みしている」という人がいれば、ぜひチャレンジしてほしいです。